2008年10月14日
エステ 茶木 ですけれども吐谷渾について
このような事をこう呼ぶんですね。本当に勉強になりました。
遼西の徒河流域(現在の遼寧省錦州市西北)にいた鮮卑慕容部酋長、渉帰にはふたりの息子があった。 庶長子の吐谷渾と正嫡男の慕容廆である。285年、渉帰が死去して慕容廆が即位すると、吐谷渾は自らの部衆を率いて陰山に出奔し、さらに313年頃青海地方に南下して現地のチベット・ビルマ語系民族である羌人を支配下に収めた。一方、慕容廆は遼西で前燕を建てた。青海の鮮卑部族は始祖の名を取って吐谷渾を国名とし、王は可汗(時に大単于)を名乗った。
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吐谷渾は南北朝時代の中国王朝にしばしば朝貢し、中国文化を摂取した。とくに436年には北魏から鎮西大将軍、438年には南朝宋から都督西秦河沙三州諸軍事、鎮西大将軍、西河二州刺史、隴西王を授けられ、翌年には河南王に改封された。444年吐谷渾内部で権力闘争があり、北魏軍の侵攻を受けたため、吐谷渾王慕利延は于闐(現・新疆ウイグル自治区ホータン)に逃れて、于闐王を殺し、その地を占拠した。その後、慕利延は故土に戻り、南朝宋との関係を深め、北魏としばしば交戦した。この頃、吐谷渾は西域南道諸国も支配し、シルクロードの国際貿易を統制していた。
隋唐との関係
581年、楊堅はシルクロードの交易を確保するため、歩騎数万を送って吐谷渾を攻撃し、大敗した吐谷渾王は遠く逃れたため、隋は吐谷渾に傀儡政権を樹立した。隋の煬帝もしばしば吐谷渾に遠征軍を送り、この地域に西海郡、河源郡などを設置した。しかし、隋末の大乱により、吐谷渾が奪回している。唐の太宗も635年に李靖を大総管とする大軍を吐谷渾に遠征させたため、 吐谷渾は東西に分裂、西部は鄯善(現・新疆ウイグル自治区)を中心に吐蕃に降り、東部はなお青海にあって唐の属国となった。唐はしばしば吐谷渾王に公主を降嫁させて懐柔を図り、唐との関係は友好的なものがあった。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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